どうしてあんな約束をしてしまったんだ……。
次の全国模試で自己ベストを出したら、ぼくからキスをする……だなんて。まさか兄さんが、これ程頑張るなんて思わなかった。見くびったぼくも悪いのだろうけど──。

そこまで考えて、洗っていた食器を片付け水を止める。振り返った先にあるダイニングテーブルの上には、
模試の結果が記された紙。どの教科も過去最高点。
今年受験を控える兄さんにとったら、喜ばしい結果であり成長だ。勿論、ぼくだって嬉しい。
だが、その努力の原動力が弟からのキス欲しさ……と言うのが納得いかない。


「でも、約束は約束……ですもんね」


ぼくは意を決して兄さんの居る部屋へと向かった。
リビングと玄関を繋ぐ廊下から枝分かれした、二階へ続く階段を上った奥の部屋。兄さんとぼくの二人部屋。
閉ざされた扉を前に歩みを止め、一度だけ深呼吸。ただキスをするだけ……それだけだ。


「……兄さん。……あれ、寝てるんですか?」


それなりの覚悟をして扉を開けたというのに、兄さんはベッドに横になって寝ていた。
安心したような、がっかりした様な。一気に肩から力が抜けるのを感じながら、静かに傍に歩み寄った。
どうやら雑誌を読みながら眠ってしまった様で。傍らに、読みかけのそれが開いたまま放置されていた。
雑誌を片付けてから、眠りを妨げてしまわないように留意して、そっと兄さんの身体に毛布を掛けた。
そのまま、何とはなしに兄さんの寝顔を眺める。
元から実年齢より幼く見える顔立ちが、瞼が伏せられているだけで余計に幼く見えた。
この際だから……と、じっくり観察する。こんなにまじまじと兄さんの顔を見たのは、初めてだった。
兄さんに意識がある時には、絶対に出来ないから。
……そう言えばと、穏やかな寝顔を眺めながらある考えが過った。
兄さんとの約束の内容は、ぼくからキスをする事だけ。それも、兄さんに意識がある時に限られている訳ではない。だったら、眠っている今、してしまえば良いのでは無いか……。
途端に全神経が兄さんを意識し出した。まともに兄さんの顔を見ていられなくなって、顔ごと視線を逸らす。
どうしても意識してしまう気持ちを抑え込んで、改めて兄さんの寝顔を見つめる。
……大丈夫、起きる気配は無い。

ベッドに手を付いて身を乗り出すように、そろそろと顔を近付けていく。情けないくらいに騒ぐ心音で兄さんが起きてしまわないかと気が気じゃない。ちょっと触れるだけで良いのに、そのちょっとが出来なかった。
緊張で固く引き結んだ唇に余計に力が入る。


「……っ、」

やっぱり無理だ。ぼくからキスなんて……。

近付くときは随分時間が掛かったが、離れるときは一瞬。無意識に止めていた呼吸のせいで、一時的に酸素不足になった身体が慌てて酸素を求め息が上がる。呼吸が落ち着いてから、のん気に眠り続ける兄さんを睨んだ。人の気も知らないで……。分かってる、こんなの八つ当たりだ。


「……そう言えば、場所の指定もしてませんでしたよね」


誰に問う訳でもなく、自分自身へ言い聞かせるように呟いた。ようは何処でも良いからキスをすれば良い、何故最初からこの事に気づかなかったのか。ぼくらしくも無く、相当動揺していたのだろう、情け無い。
自嘲する様に息を吐いて、兄さんの手をそっと取った。
手の甲だったら、照れくささも少なくて済む。そう考えて、視線を落とす。
剣道部で毎日竹刀を握る兄さんの手は少し固くて、ぼくのより大きく……逞しく見えた。

この手がいつも……ぼくに触れて――。


「な、何を考えてるんだ、ぼくは……」


思考があらぬ方向へ転がりだして、慌てて頭を振った。
こんな慣れない事しようとしているからだと、これ以上何も考えないように、思考を頭の奥に追いやる。
じわりと疼く熱に気付かないふりをしながら、そっと兄さんの手の甲へ口付けた。


手の甲に約束のキスをする...







>兄ベルSideの欲望の〜に続きます。

10.03.30