予定を確認しようと手帳を開いて、今日の日付に引っ掛かりを覚えた。2月3日――。
「兄さんの……日?」
ぽそりと思い浮かんだままに呟いて、己の思考に恥ずかしくなった。
2と3が並んでいただけで“兄さん”だと言うのなら、毎月23日は漏れなくそれに該当してしまうではないか。
考えれば考える程に恥ずかしい。
それでも、一度思いついてしまっては、意識せざるを得なかった。
そして、兄さんの為に何かしたい。そう思ってしまう程度には、兄さんが好きだ。
勿論、この事は当人には絶対に言ってなんかやらないが。
「何か、兄さんの為に出来ること……」
***
あれこれと悩みながら、気付いたら兄さんの居る執務室へと足を運んでいた。
扉を前に、当然のようにドアノブへと手を伸ばす。しかし、伸ばした筈の手は、目的のそれを前に止まる。
勇気が出ない。
何も考えずに来てしまって、具体的に何をしたいのか、そもそも何と言って切り出せば良いのか……。
そのまま暫く二の足を踏んで、ドアノブへ手を伸ばしたり、引っ込めたりを繰り返す。
いつまでもそんな不審な行動を取っていたせいだろうか。
廊下を通りかかった使用人からの、気遣いを含んだ視線が背中に刺さった。
気まずさを振り払うように咳払いをひとつ。そして、今度こそしっかりとドアノブを握り、扉を開いた。
「ヒューバート、ずっとドアの前に居ただろ?」
ぼくが扉の開くのと、真正面の机に座って仕事をしていた兄さんが顔を上げるのはほぼ同時だった。
視線が合うと同時に、兄さんは口元に笑みを浮かべた。
そして、扉を透視でもしていたのかと言いたくなる様な、発言をくれた。
「……ど、どうして分かったんです?」
「うーん、気配……かな。それで、何の用だ?」
自分で言うのもなんだが、物音は立てていないし、気付かれるような失態は犯していないつもりだっただけに、ショックだ。
ぼくの問いに対する兄さんの返答にも納得がいかない。なんだ、気配って。
何か言い返してやろうと思うのに、用件を尋ねられて一気に此処に来た理由と目的を思い出した。
兄さんの為になること……。
「……あ、そうだ。兄さん、肩凝っていませんか? 良ければぼくが揉みますよ」
「……急に、どうしたんだ?」
兄さんの表情が訝しげにゆがむ。
とっさに浮かんだだけとは言え、らしくない事を言っているのは、自分でも承知の上だ。
なのに、改めて指摘されて頬に熱が集まる。ああ、絶対にみっともなく赤く染まっているんだろう。
「っ、何ですかその目はっ! ぼくが兄さんの身体を労ったらいけませんか?!」
「いや、そういう訳じゃないんだが……。なら、頼むよ」
さっきまで疑うような目をしていたくせに、兄さんの表情はもう緩んでいた。
喜んでくれているのが、十分すぎるくらいに読み取れて、少しだけ安堵した。
椅子に座る兄さんの後ろに回って、肩に手を添えて力を入れる。
兄さんの肩は、ぼくが思っていた以上に凝っていて驚いた。
力を入れすぎて痛く無いように、かといって弱すぎず、きちんと凝りが解れるように。
細心の注意を払いながら、凝り固まった肩を解していく。
「本当に凝ってますね……」
「最近ずっと書類の処理ばかりだったからな……あ、そこ気持ち良い」
「ここ、ですか?」
慣れない手つきで不安だったが、目の前で気持ち良さそうに体を預けてくれている兄さんを見ていると、
もっと心地よくしてあげようという気になった。
暫く兄さんのあーとか、うーとか、言う声が室内に響いて。そんなに気持ち良いのかと、思わず笑ってしまう。
それが聞こえたのか、「ヒューバートは肩揉み上手いな」なんて褒めるから。
少しだけ調子に乗った。
兄さんを喜ばせるつもりだったのに、自分が喜んでどうするんだ、とは思ったが。
「なぁ、ヒューバート。なんで急に肩揉みなんて言い出したんだ?」
「べっ、別に何だって良いでしょう」
大人しくしていた兄さんが、そっと肩越しに振り返って先ほどの話を蒸し返してきた。
一番聞かれたくない事で、思わず声が上ずる。これでは何かあると伝えているようなものだろう。
案の定、兄さんの表情には聞き出したくてしょうがないといった色が見え隠れしていて。
「気になるから聞いてるんだけどな……」
「さぁ、終わりましたよ。余計なことは忘れて執務に集中してください」
このまま兄さんのペースに飲まれる前にと、無理やり会話を中断した。
肩の凝りの方も大分解れていた様だし、あまり長時間続けるのも体に良くないと聞いたことがあるから寧ろ丁度良かった。
まだ何か言いたげな兄さんを無視して、退室する意だけを伝え背を向けた。
少しくらい素直になってもいいのかもしれないが、ぼくには無理だ。
可愛げの無い弟で、愛想を尽かされても文句は言えないかもしれない。
来た時とは違って簡単にドアノブに手を添えることが出来た。
そのまま扉を開こうとしたぼくの行動は、来た時と同じようにスムーズにはいかなかった。
「あ、ヒューバート!」
兄さんの引き止める声に振り返る。
振り返った先の兄さんは、本当に嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「有難うな。楽になったよ」
「……どう致しまして」
最後まで普段どおりの、可愛くない弟のまま執務室を後にした。
兄さんのあんな笑顔が見れるなら、素直になろうか、と思ったのに。
結局、照れ臭くて言えなかった。
今日が兄さんを連想させる日だったから、日頃の感謝を伝えたかった……なんて。
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