突然のにわか雨、傘を持たずに出ていった兄さんは大丈夫だろうか。
何処かで雨宿りでもしていれば良いのだが…。
一度気にし出したら、そわそわと落ち着かず集中できなくなった。既読部分を見失わないように栞を挟んで本を閉じると同時に、玄関の開く音…。そして兄さんがぼくを呼ぶ声がした。
はっとして閉じたばかりの本を、デスクに置き去りにして玄関先へと向かった。


「…っ兄さん…ずぶ濡れじゃ無いですか…!」

「説教は後で聞く、それよりこの子…っ」


兄さんの腕に守られるようにして抱えられていた塊が、おもむろに突き出された。何事かと反射的に緊張するぼくの気など知らない兄さんは、早くと急かして。
一体なんなのだと、呆れ返りながらも視線を兄さんの腕へと向けた。塊の正体は直ぐに分かった。
…子猫だった。
兄さんと同じ様にずぶ濡れで…小さく震えている。状態だけでなく、真っ白な体毛で見た目の雰囲気まで兄さんそっくりの子猫だった。
不意に真っ青な瞳がぼくを見上げてきて、瞳までそっくりなのかと思った。ジッと見つめるぼくを、子猫も真ん丸な瞳を好奇心で更に丸くしながら見詰めてきた。そのまま視線を交合わせること数秒。
先に動きを見せたのは子猫の方だった。ずっと合わせっぱなしだった視線を伏せるみたいに逸らして、
「にゃあ…」と小さく鳴く。
そこでひとつ違和感を感じた。嫌いな水に濡れたから、それを理由に出来ない程に弱々しい声。印象深く目を引く子猫の瞳から、ぼくも視線をずらして身体の方まで見る。そこで漸く子猫の太股の毛が赤黒く汚れ、兄さんの真っ白なコートの袖までも同じ赤で染まっていることに気付いた。


「……っ、分かりました…」


慌てて子猫の身体を預かって近くで改めて見たら、猫同士で喧嘩でもしたかの様な傷に見えた。深く抉られたそれに慈悲は感じられない。本能同士のぶつかり合いの傷だった。
ずぶ濡れの兄を拭くためにメイドが持ってきたタオルを一枚奪って、その上に子猫を横たえる。痛々しい鳴き声は聞いている此方まで辛くさせた。
「大丈夫だから…」ぼくに出来る限りの優しい声音と手つきで、子猫の濡れた頭を一撫で。そうして不安に鳴き続ける子猫を少し落ち着かせてから、傷口に手を翳した。詠唱を唱えると共に、柔らかな光を纏った風が傷口を包んでいく。
徐々に子猫の呼吸も安定し始めた。…もう、大丈夫だろう。


「ヒューバート…治る、よな?」

「…当たり前です、兄さんはご自分の心配でもしていて下さい。…風邪なんかひかれたら迷惑です。」


念のためと長めに治療術をかけていたせいだろうか。傷が塞がらないと勘違いした兄さんが、不安を隠しもせずにぼくの手元を覗いてきた。随分と心配性だと思う。それでも兄さんのそう言うところは嫌いではない。
ぼくは兄さんの方を見る事もせずに、術を発動する事に集中する。が…、ポタっと滴った雫が床を濡らすのを見て、まさかと顔を上げれば…。
案の定、滴の出所は兄さんのぐっしょり濡れてボリュームを失った髪だった。メイド達が折角用意したタオルをただ首に掛けただけで、屋敷に帰ってきた時と見た目は何も変わっていない。
喉の直ぐ傍まで出かかった溜め息をギリギリで飲み込んで、集中が切れたせいでとっくに術の発動が止んだ手を離した。
子猫は身体を震わせて水気を飛ばし、自ら毛繕いをする余裕が出来る位には回復していた。安堵感に小さく息を吐いて、もうひとつ残った心配の種を睨む。視線の先の兄さんは「良かったな…」なんて子猫に話しかけながらへらへら笑っている。さっさと身体を拭けと言った筈だが…比喩では伝わらないのだろうか。
少しずれた眼鏡のブリッジを持ち上げてから、首に掛けられたタオルを乱暴に奪う。吃驚した声とは少し違うニュアンスの悲鳴が上がった気がしたが、気にしない。もしかしたら引き抜くときにタオルが首に擦れて痛かったのかも知れない。


「……、」

「…ちょ、ヒュ、ヒューバート……、痛いんだけど…っ」


一瞬でも悪いことをしたと感じた自分を隠すように。勢い良く兄さんの頭にタオルを被せて、抜け出して来る前に乱暴に髪を拭っていく。痛い?それはそうだろう。今度は意図的に、普段自分で髪を拭うとき寄りも数倍強い力で擦っているのだから。
しかし、ガシガシとそんな擬音が聞こえて来そうな勢いで動かしていた腕は、あっさりと掴まれて止まった。
ぼくだって、軍人としての鍛練を怠っていない筈なのに…兄さんには何故か敵わない。悔しさに視線が鋭くなるのが自分でも分かる。


「…っ、離して…下さい…っ!」

「そんなに猫を連れてきたこと怒ってるのか?」


……は?猫?
頭に乗せたままのタオルから覗く、乱暴に拭われたせいでボサボサになってしまった髪。困惑した瞳でぼくを見つめる兄さんは…端から見たら間抜けだ。
補足すると、兄さんの拘束から逃れようと暴れていたのを、まるで脅かされた鳩のようにピタリと固まったぼくも相当な間抜けだろう。


「…あれ、違うのか?ならどうしてそんなに怒ってるんだよ、」


挙げ句、これだ。我が兄ながら天然過ぎやしないだろうか?あぁ、もう…本気で解らないと首を傾げないで下さい…。頭が痛くなってきた。今度こそ我慢できなくなった溜め息が溢れる。それが兄さんの目にはどう映ったのか、その表情に更に困惑を浮かべるから。今度は音もなく息を吐いた。
何はともあれ、拘束されたままの手を解いて欲しい。やんわりと握られているお陰で痛くは無いが、屋敷の入り口に入って直ぐの此処では人目につく。


「兄さん…手、離して頂けませんか…。」

「駄目だ、離したら逃げるだろう?」


さっきから何を言っているのだ…そもそも逃げるって誰から、何処へ?埒が明かない、止めていた抵抗を再開しようと両腕に力を混めた。しかし、その少しの筋肉の震えに目敏く感付いた兄さんは、あろう事かぼくが拘束から無理矢理逃げるより先に腕を引いてきた。当然予想にもしなかった力にぼくの身体は簡単にバランスを崩し、兄さんの思惑通りに胸に突っ込むことになった。


「……ちょっ、に…っ、兄さん…ッ!」


なす術もなく、悲しいかな何者にも逃れられない重力に導かれ、兄の胸に収まる結果になってしまった。腕を拘束されるより質が悪い。がっしりと腰を抱き竦められてしまい、容易に離れる事も出来そうに無い。
ジロジロと向けられる使用人達の視線を感じる。見られて居ると思っただけで、堪らない羞恥に頬に熱が集まるのを感じ、それがまた新たな羞恥を煽って。最低な悪循環だ、


「なぁ、ヒューバート…、」


ぼくと違って人目なんてお構い無しな兄さんは、ぎゅっと優しく抱き締めてきて。ぐっしょりと雨を吸い込んだ兄さんの服は、思って居たよりもひんやりと感じた。こんなに冷たい服を着ていたら体温が奪われてしまうのは誰の目にも明らかだ。一刻も早く脱いでシャワーでも浴びないと、本当に風邪をひいてしまう。


「兄さんが何時までも身体を拭かないから…。こんなに冷えてしまって、」

「……あぁ、なんだ。心配してくれてたのか?」

「違っ…、呆れていたんです!兄さんは領主である自覚が足りません…っ」

「有難う、ヒューバート。俺は優しい弟を持って幸せだな。」

「…〜っ、少しは人の話を…」


にゃぁ…

下からの声にお互いはっとして、兄さんと二人で足元を見る。そこにはすっかり元気になった子猫が行儀良く座り、時折尻尾を振りながらぼく達を見上げていた。兄さんは途端に罰が悪くなったような表情を浮かべ、あー…とか呟いてぼくの身体を解放した。
そのまま癖で頭に手をやって、頭に掛かりっぱなしだったタオルに気付き漸くまともに身体を拭き始めた。
ぼくはしゃがんで、何かを催促する様にもう一鳴きした猫を抱き上げた。


「そう言えば、この子はどうして…?」

「雨宿りしてたらさ、ひょっこり姿を見せたんだよ。最初はヒューバートに似てるなって思って見てたんだけど、歩き方がおかしかったから。」

「ぼくに…似ている?兄さんに、の間違いではありませんか?」


経緯には納得した。だが、ぼくに似ている…と言うのには異論がある。どう見たって兄さんにそっくりだと思うのに。ぼくは腕の中の子猫に自分との共通点を見付けようと、じっと観察する。その視線に気付いた子猫は、きらきらと瞳を輝かせて擦り寄ってきた。
見れば見るほどに見た目、態度、共に兄さんそっくりだ。


「目が…ヒューバートにそっくりだろ?深めの優しい青で」

「……」


言われてみれば、兄さんのそれと似ていると思っていた青い瞳は深みがあった。兄さんの明るい青空みたいな瞳とは少し違いがあるかもしれない。観察をしながら甘えてくる子猫の頭や首を優しく撫であやすと、ごろごろと喉が鳴って、心地好いと伝えてきた。
不意にとん…と、今度は背後から抱きすくめられた。誰に、何て後ろを見なくても分かるが、抗議の意味合いも込めて、肩越しに背中にへばり付く人物…兄さんに睨みを利かせた。


「…何をしているんですか?」

「いや、なんか…。ヒューバートに甘えてる猫が羨ましくなった…と、言うか」

「猫にまで嫉妬だなんて、みっともないですよ。兄さん…」

「それは…、ヒューバートが俺に似ているなんて言うから…お前を取られたみたいで」


兄さんにも多少の自覚はあるらしい。指摘したら珍しくうろたえた声を出して、回された腕に力を込められた。まるで誰にもやらないと言うような抱擁が、嬉しいと感じてしまうぼくも。恥ずかしげもなく嫉妬を表に出す兄さんも、きっとおかしいのだろう。背徳感につい自嘲めいた笑みを浮かべてしまう。


「そうだ、久しぶりに一緒に風呂に入らないか?」

「お断りします、お一人でどうぞ。」

「…なら、俺も入らない」


どうやら、ぼくは兄さんには一生敵わなさそうだ。兄さんが言い出したら聞かない性格なのは、嫌というほど熟知しているぼくに、ここで選べる選択肢なんて一つしかない。後は、精々浴室で兄さんが調子に乗らないように祈るくらいだ。


「……はぁ。解りました、入りますよ。兄さんは先に行っていて下さい、ぼくはこの子を預けてから行きます」


渋々ながらの同意でも満足したらしい兄さんは、調子に乗ってぼくの項にちゅっとキスをした。先に言う、嫌ではない。だが此処は何度も言ったとおり人目につく屋敷の入り口で、遠巻きにだが使用人たちが見守り続けている現状にも変わりはない。今、両手に子猫を抱いていなかったら一発くれてやる所だが、今回ばかりはそれは叶わない。仕方無くブーツのヒール部分で足を踏んでやろうとした。しかし、直前の気配に感付かれたらしい。割りと勢い良く下ろされたヒールはゴツっと床に当たって鈍い音がしただけだった。
おしい…思わず舌打ちした。


「何故避けたんです…?」

「痛いのは嫌だろ、誰だって。それより、舌打ちなんて可愛くない」

「…誰も可愛くなりたいなんて望んでいませんから。もう、良いからさっさと浴室に行って下さい…」


じゃ、待ってるからな、なんて言いながらスキップでもしそうな足取りの兄さんの背中を見送って、ドッと疲れを感じた。何年経ってもぼくの、兄に振り回される弟…と言う立ち位置に変化は期待できないらしい。
でも、この場所は何処よりも居心地が良いから、頼まれたって誰にも譲る気は無い。
律儀にも指定位置に待機していたフレデリックが、静かに此方に近づいてきた。ぼくは懐く子猫をその手に預けた。頼みます、と一言告げて。
その返しが「ごゆっくり…」だった事に引っ掛かりを感じながら、ぼくも兄さんの後を追って浴室へと向かった。








>猫とか関係なくなった;
でも「に、兄さんっ」は言わせられた…ぞ!


お題提供>>創作者さんに50未満のお題様......恋愛五十音のお題

10.02.25