(学パロ。大学生の兄さんと、高校生の弟くんのお話)








「……ん、」


不意に目が覚めた。
辺りは真っ暗で、開けられたままだったカーテンから、やんわりと月明かりが洩れて届いていた。
普段からの習慣で、ベッドサイドへと手を伸ばす。指先に眼鏡のフレームが触れて、そのまま手に取ってかけた。
途端に視力が矯正され、ぼんやりとしていた辺りの様子がクリアになる。
時計を見れば日にちが変わって少し経ったくらいだった。

時間を把握したら急に喉の乾きを感じて、少しでも不快感を和らげるように唾液を飲み込み、ベッドから出た。

兄さんはもう帰って居るだろうか。
まさか酔っ払って帰ってきたりはしないだろうから(第一あの人はまだ未成年で飲酒はしない)その辺りの心配は無いが、
また酒癖の悪い先輩の介抱で外泊かもしれない。人が良すぎだと思う。

乱れた服を正そうとして、自分が部屋着のままだった事に気付いた。
着替える余裕すら無く寝たのかと溜め息が零れた。

ふらりと部屋から出ると目的地でもあるキッチンの方から光が溢れている。
消し忘れかと思ったが、そうでもないようだ。キッチンの方から微かに話し声が聞こえてくる。
ひとつは兄さんの声だと直ぐにわかった。

しかし、もう一人の方は聞いた事が無い声だった。
恐らく、というか確実に兄さんの大学の友人であろう事は想像できてしまう。
ぼくは喉の渇きも忘れて、気付かれないようにこっそりとキッチンを覗き見た。
そして、視界に飛び込むようにして入ってきた綺麗な黒髪に、次いで見た兄さんの笑顔に、息を呑む。
兄さんが女性を家に連れ込んだと頭で理解した途端に、ぼくは逃げるようにその場を後にした。


自室に飛び込み、扉を背にいつの間にか荒くなった呼吸を整える。

覗かなければよかった。知らなければ良かった……。
あんな兄さんの笑顔、ぼくは見た事が無い。

そこまで考えてギュッと瞳を閉じた。
なんだか良く解らなかった感情が、ぐるぐると頭や胸だけでなくて、全身を巡る。悔しかった。
ぼくの知らない兄さんを知っている彼女が、羨ましくてしょうがなかった。





気付いたら朝になっていた。いつ眠ったのだろう。全く眠った気がしない。
このまま起きずに居たいが、そうもいかない。今日だって変わらずに学校があるのだから。
そこまで考えて、全く手付かずのままの宿題がある事を思い出してしまった。イライラとささくれ立った心が乱れる。

どうしてこんなに悩まなければならないのか。
本当に馬鹿らしい、時間の無駄だし不必要な事でストレスを溜め、健康にも良くない。
しかし、それでも心に広がる濃霧は晴れる気配は無い。
気の進まないままにリビングへと向かうと、珍しく早起きをして、嬉しそうな兄さんに遭遇した。彼女の姿は無い。
もしかしたら、兄さんの部屋に居るのかも知れないけれど。


「おはよう、ヒューバート」

「……おはよう、御座います」

「どうした? 昨日から元気ないな?」


元気が無い? 当たり前だ。
散々みっともなく嫉妬して、せっかく取れた睡眠の先で見た夢すら、ろくなものじゃ無かった。
詳しく覚えている訳ではない。
でも、兄さんが女性と一緒だったのは変わらない、昨夜見た夢でも、現実でも……。


「いえ、それより……彼女は帰ったんですか?」

「彼女?」

「そうです、あの黒髪の……っ」


感情が高ぶりすぎた。
思わず出てしまった言葉に慌てて口をつぐむ。これでは昨夜の事を見ていたと公言してしまった様なものだ。
兄さんの顔がまともに見られない。
きっと、ぼくには見られたく無いだろう。彼女と会っているところなんて……。

ぐっと握った拳に力が入った。
爪が食い込んでいく痛みに少しは脳の回転がまともになってくれるかと期待したけれど、
兄さんが無言で居るせいで、焦りはプラスマイナスゼロ。いや、プラスされる。


「べ、別に……見たくて見たわけじゃありません、喉が渇いて、それで……」

「あー、良いんだけど。その、何をしているかまで見たのか?」

「……いいえ」


焦りまくるぼくを哀れに思ったのか、漸くフォローとも取れる言葉と、それに続いた言葉は無性にぼくの胸をえぐった。
見られて困ることでもしていたのか……。
良かったと安心する兄さんの行動一つ一つが、いちいちぼくの心を傷つける。
もう痛みすら麻痺したようだ。何も感じない。
そのままぼくが黙り込んでいると、兄さんは言いにくそうに口を開いた。


「それとな、何か勘違いしてるみたいだから弁解しておく。お前の言う黒髪の……ユーリって言うんだけど。
男だから。」

「……え?」


男……? あんなに綺麗な髪……。
いや、パッと見だから違うのかも知れない。でも、一瞬見ただけだからこそ強く印象に残っているのに。
それにユーリという名前には聞き覚えが……いや、見覚えがあった。
今朝兄さんの携帯に届いたメールの差出人がその、ユーリさんだったからだ。
戸惑うぼくの姿を見て、兄さんは苦笑している。


「無理も無いよなー、ユーリ綺麗だし」


まるで兄さん自身も、始めは彼を女性と思ったような口ぶりだ。
声音や態度から、その言葉が言い訳の類ではないと素直に思えた。

女性……ましてや兄さんの彼女では無かったと解った途端、今までの憂鬱な気分が一気に晴れるような安堵感を得た。
心の底から良かったと、思ったのだ。
本当なら安心したりしてはいけないのに、自分の兄さんに対する独占欲ばかりを優先して、酷い弟だと自分でも思う。


「ま、良いや…。見られたならしょうがない。本当は夜見せようと思ったんだけど、」


そんなぼくの心内など知る由も無い兄さんは、隠し事がバレて開き直ってしまったのか、
妙に晴れ晴れとした表情になっている。

もともとの機嫌の良さもあってか、変に楽しそうな兄さんに背中を押されてテーブルの元まで誘導される。
此処まで連れて来たという事は、座れと言う事なのだろう。
ぼくは自分の椅子を引いて座った。そして戸惑いを隠さずに傍に居るであろう兄さんを振り返った。

……が、その姿は既に無く、キッチンに向かう背中だけが視界に入る。

直ぐに箱を持って兄さんは戻ってきた。
両手で持って丁度良い位のサイズのそれを、大切そうに運ぶ兄さん。そのまま丁寧に、ぼくの目の前に置いた。
正方形に近い形の真っ白な箱。紙面に何か印刷されている訳でもない、シンプルなそれをじっと見つめる。
これに近いものを以前にも見たような気がする。


「兄さん、これ……」

「誕生日おめでとう、ヒューバート」


ぼくがその正体を尋ねるより先に、笑顔の兄の声と共に箱が開かれて、ぼくの目の前にケーキが現れた。


「ケーキ?」

「上手に出来てるだろ? まぁ、デコレーションは殆どユーリがやってくれたんだけど。
……あ、でも大切なところは全部俺だから! ユーリは見ていただけだ」


箱の中身を見ただけで、色々と理解できたような気がする。
だが、理解できている傍らで、突然すぎて戸惑う部分もある。
ぽつりと目の前に置かれたものの固有名詞を呟いて、ぼくは完全に行動を止めた。

兄さんは誇らしげにぼくの言葉に反応を返して、でもその出来栄えに自分が関わっていない後ろめたさを告白し、
加えて弁解までしている。
兄さんのそれらの一連の言葉が聞こえているけれど、素通りしていくようだ。

真っ白なクリームを纏ったケーキ。
なるほど、デコレーションは助っ人として呼んだ友人の手が加えられているお陰か綺麗だ。
だが、その土台は兄さん曰く全てお手製らしい。その成果、聊か不恰好にも見えた。
それが、手作り感を出しているのだが。

そうか、兄さんはこれを作るために……。


「……有難う御座います」


そう思ったら、自然とお礼の言葉が口をついて出ていた。
じわりじわりと、実感の後を付いて喜びが心を満たしていく。


「どういたしまして、」

「……このまま頂いても?」

「え……、朝から食べられるか?」


ぼくの申し入れが意外だったのだろう、驚いた様子の兄さんの表情がなんだか可笑しくて、笑ってしまう。
本当なら寝起きでケーキなんて甘いもの食べられないのだが、
兄さんが作ってくれたこれだけは、今すぐ食べたいと思ったんだ。

静かに頷くぼくを見て、兄さんも笑うと再びキッチンに戻ってナイフと皿を持ってきてくれた。
早速切り分けて、互いに一切れずつ皿に移す。
一口食べて、甘い生クリームと少しだけ固めなスポンジに、改めて兄さんの手作りなんだと実感できて……。


「……ん、ユーリのやつ生クリーム甘くしてる」

「生クリームはユーリさんが作ったんですか?」

「ああ、ヒューバートは甘いのが苦手だから、甘さ控えめにって言ったのに。
それにスポンジも少し固いよな……ごめんな」


なるほど、この甘いクリームの原因はユーリさんか。スポンジは兄さんが焼いたんだろう。
申し訳無さそうにしている兄さんを慰めるように首を横に振る。


「いえ、凄く美味しいですよ、兄さん」

兄さんが作ってくれたってだけで、今まで食べてきたどのケーキよりも美味しいと思えた。




元々甘いものが好きな兄さんは、早々に一切れ食べ終えていて。
もう一切れ食べようとして、ケーキの乗った大皿から新たなケーキを移すべく手を伸ばした。
朝からよくそんなハイペースで、甘いものが食べられるものだと感心する。
兄さんは切り分けたケーキを自分用の皿に移しながら、真剣な声音で口を開いた。


「ヒューバート、俺さ……大学じゃ彼女なんて作らないよ。」

「……」


先程の勘違いのことだろうか。恥ずかしいから、蒸し返さないで欲しかったのに。
そんなぼくの気も知らない兄さんは、ケーキを移し終えたナイフを皿に戻した。
皿とナイフの部分が接触して、乾いた音が静かな部屋にやたらと大きく響く。
何を言って良いか分からなくて、俯くようにして食べかけのケーキを見つめるぼくを無視して、兄さんは続ける。


「大学だけじゃない、卒業して社会に出ても作らない。」

「何を馬鹿なことを、一生独身で居るつもりですか?」

「はは……。そんなつもりは、ある、のかな。
でも、俺が恋人にしたいって唯一思ってる人は、大学にも会社にも居ないからな」

「どういう意味ですか」

「さぁな? 俺にもう少し勇気が出来たら、ヒューバートには真っ先に教えるよ」



正直、そんな告白聞きたくは無い。
それでも、兄さんが真っ先に教える相手にぼくを選んでくれた事は、少しだけ嬉しかったから。

ぼくは曖昧に頷いた。






>生クリームが甘いのは、アスベルに散々惚気話を聞かされたユーリの小さな報復だったり、そうじゃなかったり。

11.07.31
(title by エナメル)