唇がひりひりする。アスベルは無意識に痛みを訴える唇に舌を這わせた。
かさつく唇の感触に混ざって、かすかに鉄の味がして、自分の唇が切れている事に気付いた。
どうりで痛いはずだ。アスベルはげんなりとして再度唇を舐めた。
そうやって気になって舐める度に、ひりつきが強まるように思えた。どうにも唇ばかりが気になってしまって仕方がない。
リップを塗ろうとズボンのポケットに手を突っ込む。が、入っているのは携帯だけだ。
鞄の方だったかと、学生鞄の側面に付けられた小さなポケットへと手を伸ばした。しかし、ここにもリップは無い。

唇はひりひりと痛むし、リップはなかなか見つから無いしで、アスベルは歩みを止めた。
鞄の中をくまなく探そうと思ったのだ。
アスベルが立ち止まったことに気付いたヒューバートも、足を止め背後を振り返った。


「どうかしましたか?」

「ヒューバート、リップ持ってないか?」


鞄の中をごそごそと漁りながら、ヒューバートの問いに質問で返すアスベル。

(尋ねたのはぼくの方だと言うのに……。)

ヒューバートは少々の呆れを見せながらも、アスベルが立ち止まった理由を含んだ質問に、瞬時に状況を理解した。
だが、問われた意味は計りかねた。
仮に自分がリップを所持していたところで、何かの解決に繋がるのだろうか。
このまま無視をする訳にもいかずに、ヒューバートは口を開いた。


「持っていますが……」

「貸してくれ」

「お断りします」


ヒューバートの言葉を聞くや否やアスベルは顔を上げた。
間髪入れぬ、を体現したかのような返答と、その内容に、ヒューバートは表情を歪める。
眼鏡の奥の瞳に軽蔑を宿し、同じく間を空けずに返してやった。
今度はアスベルが不満をあらわにすると、数歩ばかり離れていたヒューバートとの距離を詰めた。


「別に良いだろ、兄弟なんだし」


まるで自分が意地悪をしているかの様な言われように、ヒューバートは目を細め、目の前の兄を睨んだ。
しかし、アスベルもその程度で怯む様子は無かった。呆れてため息も出ない。
未使用の物を所持していたなら、ヒューバートだって迷うことなく貸した。
だが、生憎持っているのは使用済みの物だ。一度でも使ってしまったものを、兄とはいえ貸すなど考えられない。
どうして目の前のアスベルにはそれがわからないのか。


「兄弟であろうと無かろうと、リップの貸し借りだなんて聞いたことが無いです」


ヒューバートはそれだけ告げると、視線を逸らすように前方へと向き直りアスベルを置いてさっさと歩き出してしまった。
それに焦ったアスベルは、慌てて弟の後を追いかけると隣を並んで歩く。

結局、自分のリップは見つからず仕舞いだ。出血は治まったようだが、唇の痛みは継続している。
学校に着いたら売店で新しいのを買っても良いのだが、それまでがつらい。


「なぁ、ヒューバート……」

「そんな声を出しても貸せませんよ。学校まで我慢してください」


甘えるように再度声をかけてみても、ヒューバートは貸してくれる気配すらない。
アスベルは小さくため息を吐いて、唇をそっと撫でる。相変わらずのかさかさした唇の感触。


「兄さん、気持ちは分かりますが、あまり弄らないほうが良いですよ。」

「分かってるけど……。あ、そうだ」


気になるものは気になるのだから仕方なかった。
アスベルは生返事を返しながら、少しでも痛みを和らげようと舌を這わす。
一瞬潤うが直ぐに乾燥し、更に痛みと違和感が生まれとにかく不快だった。
どうにかしたいと考えるアスベルの頭にある考えが浮かんで、また足を止めることになった。
戸惑うヒューバートへ説明もそこそこに辺りを見回して、ひとけが無いことを確認する。
ゆっくりと通学できるようにと静かな道を選んで通っているせいか、辺りには人は居ない。


「ヒューバート、自分に付けるなら平気だろ?今此処でリップを塗ってくれないか?」

「……構いませんが。どうしてですか」

「良いから、早く」


辺りを気にしながら急かすアスベルに流されて、ヒューバートは鞄から自分のリップを取り出す。
また良からぬ事を考えているのだろうと思うのだが、必死に頼まれてしまうと、どうしても拒みきれない。
ヒューバートも冷たい外気に触れた唇のかさつきを感じていたから、丁度良いとは思うのだが。
目の前で唇の痛みを訴える兄がいる手前、自分ばっかりと感じる気持ちもある。
ヒューバートはリップを手にしたまま、一瞬躊躇いをみせた。が、塗れと言ったのはアスベルの方であるし、
もたもたしていたら意外とせっかちな兄に余計な事をされかねない。
ヒューバートはリップを少しだけ押し出すと、普段より手早く塗った。
ミントを含んだそれが少しだけすーっとした清涼感を与え、感じていたかさつきも治まった。


「兄さん塗りました……っん!」


キャップの閉まる小さな音を合図にして、アスベルはヒューバートの腕を引いた。
驚く暇もなくアスベルの胸へと引き寄せられたヒューバートは、そのままアスベルにキスをされる。

眼前一杯に広がるアスベルの端整な顔に、実兄ながら格好良いと呆けている間に、アスベルは何度も角度を変えキスを繰り返した。
アスベルのかさついた唇が押し当てられる度に、ヒューバートが塗ったリップが移る。
痛みが落ち着くのが解って、アスベルは夢中でヒューバートの唇にキスをした。


「ふ、っ……ンんっ」


最初こそ状況を理解しきれずに流されていたヒューバートだが、徐々に頭も回り始めてきた。
キスをされていること、人通りの少ないとはいえ、いつ誰が通ってもおかしくない場所だという所まで理解すると同時に、アスベルの肩を押した。
しかし、既に力の入らない体で抵抗したところで無意味だった。益々深く口付けられ舌の侵入を許してしまう。
嫌だと首を逸らして逃げようとすれば、それを見越していたアスベルに頬を押さえられてそれすらも叶わなくなる。


「っん……ゃ、にい、さ……んぅ」


ヒューバートは己の許容を越えた羞恥心に、身体を震わせた。
抵抗のために添えた手でアスベルの制服を力無く握る。
それがまるで縋るようで、アスベルを喜ばせているとヒューバート自身は気付いていない。

アスベルは満足すると唇を離した。
二人の間を混ざりあった唾液が糸を引いて、ぷつりと切れる。


「リップ、有難うな。ヒューバート」

「……リップ? っ、まさかその為に?」


羞恥に潤んだヒューバートの瞳がアスベルを見つめ、徐々に鋭くなった。
しかし、潤んだ瞳と赤く染まった頬で睨まれても恐くはない。


「そんな目で睨んでも恐くないぞ、ヒューバート」


寧ろ可愛い、とは言わないでおいた。
これ以上からかったりしたら、ヒューバートの機嫌を完全に損ねさせるだろうから。
昼食を別で食べるなんて事にはなりたくない。


「……最低です、こんな道の真ん中で」

「誰も居ないし良いだろ」

「そう言う問題じゃ……っ、兄さんなんかもう知りません!」


ヒューバートは顔を赤くしたまま、さっさと歩き出してしまった。
すぐに後ろから自分を追いかける兄の声が聞こえるが、ヒューバートは無視をした。
無意識に胸へと手を伸ばす。未だに強く脈打つ心臓は、ドキドキと煩いほどだ。
まさか普段と違う兄の唇に興奮した、だなんて気付かれたくない。

一刻も早く、この冷たい外気が体の火照りを奪ってくれるよう願うしかなかった。










11.02.20
(title by エナメル)