「ヒューバート、今日…そんなに喋らないな。どうかしたのか?」
「……何でもありません、気にしないでくだ…ッ、」
目の前の部屋の番号と、渡された鍵の番号とが一致しているか確認するヒューバートの背中に向かって、今まで黙って付いてきていたアスベルが声を掛けた。
今日は朝からずっとヒューバートは会話に入ってこなかった。元より必要な事がない限り自ら進んで話し出したりする質では無かったし、必要以上に気にしていなかったのだが。どうやらそう言う事が要因という訳でも無いらしい。それと言うのも、何かを喋ろうとして口を開くものの、直ぐに表情を歪め黙り込む姿を何度か目撃したのだ。喋らないのではなく、喋れないのではないか…。自分の弟が他人に弱音を吐いたり、見せたりしない奴だって事は解っていたから。勿論自分の体調の異変だって…絶対に言ったりしないだろう。なら、此方から気にかけてやらないと…それが、お節介だとか過保護だとか言われても構わない。とにかく心配で仕方なかった。
そして、先の行動に至るわけである。丁度開錠しドアノブへと手を添えていたヒューバートの肩が軽く揺れ、次いで返された今日初めて聞く弟の声は…不自然に止まった。何事だとアスベルは事情を聞こうとして、此処がまだ人目に触れる心配のある宿屋の廊下である事を思い出した。流石に此処で立ち話を続けるのは憚られ、苦い顔でだんまりを決め込むヒューバートの背中を押すようにして室内へと足を踏み入れた。パタリと後ろ手で扉を閉めてから改めてヒューバートの顔を見る。
「…口の中、少し見せてみろ。」
「と、突然何ですか…」
「良いから、見せるんだ…」
やっぱりというかなんと言うか。後ろめたい事があるのが明確な反応を返され、小さく溜め息。7年間で大分変わったと思っていたのだが、根本は全然変わってないらしい。アスベルが狼狽えるヒューバートを見る瞳をジトリと細めた所で、ヒューバートはあっさりと折れた。
「あぁ、もう!」とか何とか言いながら、自棄になって口を開けて見せる。その姿にアスベルは満足げに笑うと、どれとばかりに顔を近づけた。今の距離でも耐え難いと言うのに、更に近付こうとする兄に、ヒューバートは肩に変に力が入るのを抑えきれなかった。間近に迫った兄の顔を見る事が出来きずに行き場を失った視線は、宛もなく泳ぎ不自然極まりない。意識すればする程、緊張で強張りすぎた身体がふるふると小さく震えるのを感じて、恥ずかしさにギュッと瞼を閉じて視界から兄の姿をシャットアウトする。
「…あ、口内炎が出来てるじゃないか、どうして言わなかったんだ?」
「口内炎位で、…いちいち兄さんに報告する必要なんてありませんから」
開かれた口の中を注意深く眺めて、ふと舌先に口内炎独特の白い炎症を見つけた。自身も全く経験が無いわけではない厄介な炎症の元凶であるそれは、見るだけでも相当痛そうで。アスベルは途端に心配そうな視線を弟へと向けた。しかし心配するアスベルとは裏腹に、ヒューバートの方は冷めたもので。閉じられていた瞳が開かれると共に浴びせられる呆れた声。
勝手に心配しているのは確かに此方だし、口内炎くらいで大げさかもしれない。しかし、しかしだ。心配する兄に対してこの態度…。オズウェルは俺のヒューバートになんて教育をしてくれたのかと、検討違いな人物へ怒りが生まれた。
「……」
「…な、何ですか…、そんな顔したって…」
急に怒りを含んだ表情で黙り込まれ、ヒューバートは怒らせてしまったか…と焦った。反射的にアスベルから逃げようと一歩後退る。…が、その分ジワリと距離を詰められて、2人の間の距離は縮まらずに逃げる追うを繰り返す。然程広くもない部屋の中、壁際に追い込まれるのはあっという間だった。とん…、と後ろに下げたかかとが壁にぶつかって、逃げ道を失った事を覚る。絶望感にアスベルへ視線を戻して……
見なければ良かったと後悔した。
ヒューバートと視線が合ったアスベルが一瞬見せた笑顔は、普段の優しさに満ち溢れたそれとは正反対で背筋を嫌な汗が伝う。ヒューバートが口を引き結んだ瞬間、ダンっと乱暴な音を立てて、アスベルの両腕がヒューバートの行く手を阻む壁へと叩き付けられた。その直ぐ傍からの大きな音や、普段の温和な彼からは想像できない行動に驚いて肩が竦んだ。
自分の瞳よりも深い蒼に確かな怯えが滲んでいることに気付きながら、アスベルは今しがた壁についた片手を離して、ヒューバートの顎をぐいっと持ち上げ上を向かせた。別にヒューバート相手に怒っている訳では無いというのに。勘違いしたらしく面白い位に狼狽えるヒューバートが、可愛くて可笑しくて…ついからかう事を止められない。
うっすらと開いた唇を舐め、そのまま唇同士を重ね合わせる。柔らかいヒューバートの唇は、アスベルが舐めたせいか、しっとりと濡れていてひどく甘く感じられた。呼吸をも奪うように角度を変えて深く。漏れる甘ったるい吐息すら愛しくて…ふと、悪戯したくなった。少し喋るだけで痛んだ口内のそれを舐めたら…。
「んっ、……っは、ァ…んん…ッぅ!」
アスベルは炎症を気遣い重ね合わせるだけだった唇を離し、ついでに苦しそうなヒューバートへ呼吸する機会を与えつつ…また直ぐに唇を重ねる。今度は戯れの様なそれではなくて、遠慮無く口内を荒らすように。痛みに怯えて引っ込んでいたヒューバートの舌を絡めとり、炎症のある舌先を一舐めした途端、ヒューバートの肩が跳ねた。くぐもった声に痛みが原因の甘い悲鳴が混ざって、アスベルに堪らない快感を与える。更に、まるで縋るかの様に胸元辺りを握るヒューバートの手が、庇護欲を募らせると同時に、アスベルの内に眠る加虐心を煽って。一舐めなどではなく、もっと強く舐めたら…と思うままにヒューバートの舌先を嬲った。
「…兄さ…っ…んっ……っう、」
飲み込みきれない唾液がヒューバートの口端からだらしなく零れていくのに気付いて、勿体無いと重ねた唇を離して顎先からペロリと舐め上げ。そのまま再び口付ける。
静かな室内にヒューバートの甘い悲鳴と、唇が重なる度、舌が絡まる度に鳴る濡れた音が響き渡る。
「……ン、……どうだ、ヒューバート痛かったか?」
「ぁ…、はァ…っ、わかり、きった事…聞かないで下さい」
漸く顔を離され、軽い酸欠で荒くなった呼吸を整える。まるで情事前の様な激しい口付けを繰り返されたせいで、ヒューバートは自力で立つことが出来なくなっていた。アスベルにしがみつくことで何とか立っていられた身体は、唯一の支えを失いズルズルとその場にしゃがみこんでしまう。アスベルはそんな息も絶え絶えなヒューバートの事をジッと見下ろして、答えの解り切った問いをわざと俯いたヒューバートへと向けた。
少しずつ落ち着いてきた呼吸に顔を上げ、ヒューバートは己を見下ろす兄を見上げた。容赦なく与えられた刺激を引きずり、未だにジンジンと感じる舌先の痛みに、喋り難さを感じながら言葉を返す。
見上げてくる酸欠で涙に濡れた蒼い瞳、舌っ足らずな喋り方。目の前の弟はどれ程自分を煽れば気が済むのだろう。アスベルは新たな悪戯を思いついてくすりと笑うと、視線を合わせる様にヒューバートの前にしゃがみこんだ。
「……なら、これはどうだ?」
「何……んんぅ!…ッく……いっ、ァ…にいさ…」
「はは…痛がってるヒューバートの顔、やらしいな…」
一言告げると同時に、指をヒューバートの口内へと無理矢理突っ込む。突然の事に目を見開くヒューバートに構わずに、指で舌先を撫でた。途端に走る痛みに寄せられる眉や、苦痛に歪む表情は相変わらず堪らなくて。キスの時はよく見られなかった、ヒューバートの表情にコクリと喉が鳴った。
求めるままの反応を返すヒューバートに口内を苛める指先の動きがエスカレートしていく。指の腹で撫でるだけでは物足りなく、軽く爪を立ててみる。すると痛いのか手にヒューバートの手が重なって止めようとしてくる。
「あぁ、流石に…これは痛かった?」
「…あッ…ん、ゃ…め……」
最初は痛みに呻く悲鳴だった声に、明らかな甘さが加わって。表情までもがとろんとしてきた。辛いのかどうにか止めさせようと添えられた手も、今では添えられるだけで何の抵抗にもなっていない。向けられる瞳から涙が零れ落ちた所で指を引き抜いた。流石にこれ以上は、後戻りが出来なくなる。
「…悪い、少し調子に乗りすぎたな…。大丈夫か、ヒューバート」
「……っ、…大丈夫じゃないです…ほんっと、悪趣味…ですね、兄さんは…っ、」
「何言ってるんだ、お前ほどじゃ無いよ…」
「痛くされて感じてたくせに…」と、耳元で囁かれた言葉に、カッと顔に熱が集まるのを感じた。それが事実なだけに反論出来ないヒューバートは、未だ涙の滲む瞳で兄を睨みつける事しか出来なかった。
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